色彩の下

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2011年 01月 31日

帽子

人間の味覚の特徴として、スペクトラム受容というものがあるそうだ。
スペクトラムとは帯の意味で、単体ではなく、似ているけれど少し違う物を同時に感じる際に生じる立体的な感覚のことを指すという。
自然で造られた食物をとる際と、化学生成した同じ味の食物をとる際とで、成分が同じでも全く違う味わいを舌は感じられる。
それらは、歯ごたえや色や香りなども取り込み、複雑さを増す。
美術も個々の表現とか、同時代の作品群とか、1点ずつみるだけでなく、イロイロな解釈で受容することでより複雑に味わえる。
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一日は短い。
一日で出来ることは少ない。
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by uchiumiinfo | 2011-01-31 23:59
2011年 01月 30日

京急

・神奈川県立金沢文庫:特別展「運慶」
・三菱一号館美術館:カンディンスキーと青騎士展
カンディンスキーあまり得意じゃないのだが、変遷が見られてとても良い展示だった。
途中には今の日本の作家にも共通するような場所があり、そこから抽象化が進んだり、絵の具の質が変遷していつか決定されたりの過程が見られた。
・横浜美術館:高嶺格「とおくてよくみえない」

晴れたけれど少しだけ雪が舞った。
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テレビゲームが生まれて初期はゲームって難しかったと思う
自分が幼かったこともあるが、ゲームバランスという言葉も存在していなかったのではないだろうか?
ひたすら難しく、操作性の悪いゲームはたくさん存在し、クソゲーと言われるものもつかんだし遊んだ。
いつのまにかゲームのなかにバランスが生まれ、それを逸脱した物はなかなか生まれなくなった。
制作者のバランス機能と、実施者の社会的排除機能が働いた結果だろう。
美術はどうだ?
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by uchiumiinfo | 2011-01-30 23:59
2011年 01月 29日

対価

眠らない時期と眠る時期は明らかに身体のバランスが違うと感じる。

多摩美術大学校友会理事会
夕方から新年会。

タコ料理は何でもおいしい。
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一生懸命頑張って描いたから、そのかわりに評価してくれ。
なんて言う事が通用しないから、美術は良いんじゃんね。みんな一生懸命造っているよ。
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by uchiumiinfo | 2011-01-29 23:59
2011年 01月 28日

ぱっぱ

朝まで描くサイクルになっている。

・五感の学校プロジェクト中間報告会:柏の葉UDCK
アートのプロジェクトのトークや理念を聞くたびに、制作をする事とそれが社会に浸透する事との間にはズレを感じる。
単にお互いを知らないだけで、違う流れの中にいるような。
文章ではなく、耳で聞き目で見る事でなるほどと響くところがあると思う。

葉っぱっぱ体操難しすぎる。。
そしてグルーヴィジョンズが造ってるってすごい。
やってみて。
http://www.youtube.com/watch?v=87q_aIGDvK0
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夜制作続き。

絵画の内容は重力の束縛から逃れられるのであれば、画面下から上に向かう力で絵づくりする部分が必要だ。
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by uchiumiinfo | 2011-01-28 23:59
2011年 01月 27日

上海

筆跡での絵画を制作していると、状況の複雑さに手がとまる。
目の前の画面の中に沢山の未来があるのは分かっているけれど、突破口が見当たらない。
「上海」という単純なルールのゲームがある。
パソコン画面上で積み上げられた麻雀パイをルールに則って消してゆく。
全てのパイを消す事が出来ればクリアで、まだパイが残っていながら消せる物が無い時にはゲームオーバーの表示と共に画面に手が出せなくなってしまう。
ゲームが停止していない間はまだ消す事が出来るパイが画面上にあるという証なのだが、いくら見渡してもそれが見つからない事がある。
何分も観てるのに、そしてそれは単純なルールの上で簡単に存在しているはずなのに見つからない。
筆跡での絵画はそのような状態をずっと凝視しているような感覚ににている。
まだゲームオーバーだと認めずにゴリゴリとすすむ感触。
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なにものにもよらない良い絵なんてない
なにものかによりながらもなにものでもない絵
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by uchiumiinfo | 2011-01-27 23:59
2011年 01月 26日

身体→

制作に集中。
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結局身体が抱える問題に行き着いてしまう。
時間とか認識とか作業とか。
身体からのものだからね。
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by uchiumiinfo | 2011-01-26 23:59
2011年 01月 25日

後期

・トーキョーワンダーサイト渋谷:TEAM 16 | 荒川智則個展 presented by カオス*ラウンジ
・トーキョーワンダーサイト渋谷:TEAM 17 | わくわくSHIBUYA coordinated by 遠藤一郎
・hpgrp GALLERY東京:ANTE VOJNOVIC / アンテ・ヴォジュノヴィック
・NORTON GALLERY:秋本貴透
・ラットホールギャラリー:オスカー・トゥアゾン&ガーダー・アイダ・アイナーソン
・ギャラリー現:田島 鉄也
・Gallery 銀座 フォレスト・ミニ:戸村香×公地由佳展
・コバヤシ画廊:杉田和美展
・ギャラリー東京ユマニテ:野田裕示
・西村画廊:町田 久美
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大学講評。
提出前の2週間程度で状態はガラッと変わるんだなぁ。
制作者の未来は制作する事以外では変わらないと思う。
頑張って下さい。
僕も頑張ります。

以下教育系のメモ書きまとめ。
バラバラに書いても説教クサイので。。

教育って、自分がそれまでその分野で対処していたなり振りや所作がモロに出る業種なのかもしれない。
気をつけなければ。

自分が知者で無い事を自分は解っているので、教育の場での発言に痛みを伴う。

人に意見を言うということは相応に自分を削る。
強い言葉は自分に返ってくる。
例えば「生きる資格がない」と人に言ったら、それを発言した強さに自分が取り憑かれる。(そんな事は言わないけど。。)
教育の為に使った言語も自分に取り憑くので、それに耐える必要がある。

「絵」自体を教える事なんて多分無理な話なんだけれど、何を教えられるかというと状況の打開する方法なのではないだろうか?
状況を打開するには、自分の持つツールから必要な物を選び出し、それを行使することを繰り返す必要がある。
その為には、ツールを増やす事と応用力が必要になる。
絵画制作においてツールはいろいろな画材や技法や知識であり、応用は経験やその場での多くの答えだ。
勉強をすると自分が知った以上の事をできるようになる。
その、「知った以上」を作り上げる為に、次の一手に至る方法が必要となる。

学生は能力は団子だと仮定すると、教員の能力が重要になるのだろうね。

美術史や美術の現状を勉強しないと、自分で思い付いた物がどのような物なのかが判断出来ない。
例えば、新しいギャグを思いついたと言って、「そんなのかんけいねー!」とか「残念!」とかを言ってもウケるはずがない。
その本人が本当にオリジナルで造り出した物がそのギャグだったとしても、それは受け入れられないだろう。
情報を仕入れないとは、そのような恥ずかしい事を平気でやるようなものになり得る事だ。
制作の動機が「新しい物を作りたい」でも「既存の価値観を壊したい」でも、何に対して新しいのか、何をもって既存と言うのかは、多くの物を見なければ判断できないだろう。

制作で悩むのは当たり前のことで、その悩んでいる状態でいかに手を出してゆくかが問題だ。
どうなるか100%分かっている状態で制作が進行する事はありえない。
それが自分にとって未知の領域であるならば尚更の事だ。
悩んでもいいから止ってはいけない。

学生の制作に対する「苦しさ」、「心細さ」、「寄る辺無さ」は理解できるが、「やらなさ」は理解できない。

「理不尽に耐えろ」って立川談志が言っていた。
とても良くわかる。
勉強は自分にとって未知の物を取り込む作業なので、もしそれらを取り込む道程が理不尽に感じても、その未知の物を自分がまだ取り込んでいないという理由で、それについて判断できないのだ。
だから耐えるしかない。

教うるは学ぶのなかば
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by uchiumiinfo | 2011-01-25 23:59
2011年 01月 24日

ナッツ

・ギャルリー志門:「ドローイングとは何か」
・中和ギャラリー:小峰 力展
・Oギャラリー:沓澤 貴子 展
とても良かった。
・Oギャラリーups:江上 伸 展
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↑こんなシールをもらって嬉しい30代おっさんは日本に何人いるんだろう?

制作の詰めはしんどい。
良くなるという感覚と疲労が毎日相殺される。
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by uchiumiinfo | 2011-01-24 23:59
2011年 01月 23日

キー

相撲は白鵬が6場所連続優勝。
100キロ以上の大男が思い切りぶつかり、地面に足の裏以外が付いたら負けというシビアなルールでなぜこんなに差がつくのだろう?

解説に呼ばれる親方はかなりの頻度で「気力の問題」とか「気力次第」というフレーズを使う。
前時代的な意見だと感じるかもしれないが、やらなければいけない事が決まっている時に、同じ動作や技にどのように差をつけてゆくかと考えると、気力って有効なのだろうと思う。
「練習の突き」と「自分の腕が壊れてもかまわないという覚悟の突き」では威力が違う事は明白だろう。
身体に未練の様に残る制約を超えて、ドカーンと当たれば、同じ事をするにも変わってくるだろうということだと思う。

絵画にだってそんな事は言える。
悩むより手を出す。
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神が決定するから政治を政(まつりごと)という。
まつりは神へ奉仕が最大の役目だ 。
私よりも大きなものへ向かうものだ。
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by uchiumiinfo | 2011-01-23 23:59
2011年 01月 22日

「芸は身を助ける」と言い、舞台に上がる人物を「芸人」とよぶ。
お笑いの人達も芸人とよばれる。
お笑いブームの中、多くの若手お笑い芸人が生まれ消えていった。
芸という言葉で浮かぶのは、紙切りや独楽回し等なんだか古風なものだが、例えば三味線や長唄など人に見せる商売だろうが、たて笛や縄跳びだろうがある程度以上の実力があると芸があると評される。
なんの事はなく、芸という言葉で紙切りや独楽回しを連想するのはその分野で先陣を切る天才がいたからであり、別に何をしようともそれで身を食わせる事が出来たら「芸」という位置に昇華するらしい。(昇華って言葉も昇って華になるとは上手い言葉だ)
江戸屋猫八も玉川カルテットも他の追随を許さぬ芸があったので、芸人として身を食わせる事が出来た。玉川カルテット(玉川たけお、松木ぽん太 、二葉しげる、松浦武夫の時代ね。今知らないので。)なんて地味だし、芸人というカテゴリーにいるのでそのバックボーンが検証される事はないけれど、一つ一つの声や技術は超巧くて聞き入ってしまう。「芸」に昇華される線引きは、聞き入るとか見入る(魅入る)という他者の身体を獲得することかもしれない。
人を笑わせるなんてとてつもなく難しい芸で、さらに何か道具を使うより使わない方がという山登りのような理論で落語が話芸の頂点に長らく君臨していたのだろうか?
消えてしまった芸人たちは、身を助ける程には、そして聞き入る見入る程には芸が無かったのだろう。

最近みた「いつこく堂」の芸があまりにすごくて、たとえ面白みに欠けようが「これは食える芸だな」と思ったので。。
美術作家には「芸」があるのだろうか?

スカイツリーには芸があるかもね↓
東京タワーには芸があるよ。
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状況がフェアでないと、プレイヤーのパフォーマンスが下がる。
美術でも同じ。

短絡的に得をしたと思えても、それによって相手とのフェアな状態を奪ってしまえば、その場でのパフォーマンンスは下がり、結果精度を損なう。
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by uchiumiinfo | 2011-01-22 23:59